当社の関連会社である民安経営事務所は兵庫県だけでなく宮崎県にもオフィスを置いています。
もともと冨松は、駆け出しの頃に地方でたくさんお仕事をさせていただき、経営コンサルタントとしての現場経験を積みました。
その経験もあり、地方の中小企業支援に積極的に取り組む方針を採っています。
地方支援を強化する際にどのエリアを選ぶか
以前から地方支援に力を入れてきましたが、より地方でのお仕事を増やしたいと考えた際に、どのエリアを選ぶか考えました。個人的には本拠地である関西から行きやすく、ご飯が美味しいところが良い。
また、その地域に個人的な思い入れが持てるとなお良いと思いました。
そうして考えたときに思いついたのが、自分の家のルーツの土地でした。冨松という姓は戸籍で遡ると宮崎県の都城市にたどり着きます。
宮崎県は食べ物が美味しく、飛行機で行けば日帰り出張も余裕ということで、諸条件もクリアします。
そこで宮崎県を中心に九州エリアでの地方支援を志し、宮崎オフィスを開設しました。
ついでに都城冨松姓の紹介
我が家は曾祖父の代には北陸に移ったので、都城市に残る一族の方とは全く面識がありません。そのため、ここからは調査に基づく内容になります。
戸籍で確認できる限りでは冨松源太郎という人物が私の4代前のご先祖様です。その後は冨松兼比古という方が継いだようで、私の3代前のご先祖様の兄になります。
兼比古の名は幕末から明治期に都城島津氏の当主を務めた島津久寛(都城島津氏26代当主)の日誌の中に記録されています。明治維新後も都城島津氏の元を離れず働き続けた家臣(御加勢人と呼ばれる)の一人であったようで、明治17年1月に御祝儀罷出ルと記されています。
また、その父源太郎は薩英戦争(1863年)の当時、鹿児島城下にあった都城鶴江崎屋敷に詰めており、英国艦隊襲来について詳細に整理・記した「英国軍艦渡来払」を著しているそうです。
ここからは冨松姓自体の話になりますが、元々は薩摩の国(現鹿児島県)で勢力を伸ばした島津家の一族が薩摩国伊集院を領したことで「伊集院」を名乗り、その後伊集院家の一族が分家し「飛松」を名乗り、そこから分家した孫が「富松」となったそうです。
その後どのタイミングで「上の点」が飛んで行ったのかはわかりませんが、江戸初期には「冨松平右衛門」となっており、室町時代のどこかで無くなったのかもしれません。
このようなご縁もあり、九州の中小企業様に少しでもお役に立ちたいと考えています。